思い出した説明あれこれ・・・
藤原定家 後鳥羽上皇4回目の参拝の時、歌会のために 定家を連れて行った。定家は、その時の様子を こと細かに書き記しているが、その中に出てくる 王子は86個である。 定家は歩くのが大の苦手だったが歌会で名を あげるためついて行く。 日記には、寝坊をしたり、僅かの坂でもよじ登った かのように記されているので余程辛かったのだろう |
熊野午王(ごおう)宝印 カラス文字で描かれたもの。熊野誓紙。 本宮88羽・新宮48羽・那智72羽が描かれている あと藤白神社で計4種類ある。 お参りすると、これを必ず受けてくる事。 「一度、我が山に参拝した者ならば、例え三悪道 (地獄道・餓鬼道・畜生道)に至ったとしても、 その参拝の印を見つけ出して救いとろう」と 熊野の神が仰ったという。 これを誓紙として武将の盟約には熊野午王が必ず 用いられた。義経が頼朝に差し出した誓約文も これが使われていた。 熊野の神への誓約を破ると、熊野の神の使いである カラスが三羽亡くなり、本人は血反吐を吐いて地獄に 落ちるとされる。 (余談) 江戸時代になると遊女と客の約束にまで使われた。 高杉晋作が詠んだ歌に 「誓紙書くたび三羽ずつ熊野でカラスが死んだげな」 「三千世界のカラスを殺し、主と朝寝がしてみたい」 というのがある。 |
熊野詣での移り変わり 第一次ブームは、平安末期。まさに義経の頃。 後白河上皇34回で平清盛とも詣っている。 1192年に亡くなった後鳥羽上皇は28回。 全ての上皇・法王で計91回にも及ぶ。 第二次ブームは江戸時代。 この頃は手形がないと藩を出入りできなかった ところが「伊勢参り」「熊野詣で」という理由なら 簡単に手形がもらえた。 江戸時代の人工、およそ2000〜2500万人 と言われる中で伊勢には40万人が詣でている 物見遊山的な要素が大きかったようである。 |
鈴木さんのルーツ JR海南駅近くの藤白神社の近くに有間皇子の墓があります。 更に、その近くに最初の「鈴木さん」ちがあります。 鈴木さんのルーツだそうです。 この鈴木さんが全国に熊野の神の素晴らしさを 絵巻物にして持ち歩いて日本全国に宣伝?していたため、 全国に「鈴木さん」が多くなったとか。 もし鈴木という人が、ここに来れば証明書を持って行けば 何か下さるそうです。 ちなみに同じバスの方で鈴木さんがいらっしゃったので 免許証を持って行っておられました。 前回に来た時も行って何かステキな物を頂いたそうです |